ななつめの井戸レポ

よしなしごとによるリハビリテーション

アヤへの手紙#02 大きい海の話

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アヤへ。

日付変更線を越えたらしい。

遠くに見える陸地は、ロシア領、ベーリングとか、きっとそんなあたりだ。

僕たちは途方もなくのっぺりと広がる太平洋の上空にいる。当たり前だが、後にも先にも、連綿と光がある。9月25日の昼の光と、9月26日の昼の光だ。時間的同一性とか、同時性とかが云々、という話はともかく、人間はぐるりと360度取り巻く時間の帯を、ざっくり切り分けて、9月25日とか、9月26日とかを作ったわけだ。時間的に同一でも、こっちは9月25日の出来事で、あっちでは9月26日の出来事になる。事象を名指すって、実はけっこう難解なことなのかもしれない。それとも、名指しに日付なんかを使うから、ややこしいのか。まあ、結局グリニッジ標準時間を基準にして、話は終わりになるだろう。

天気のせいか、太平洋の海面はあまり明るく見えない。往路にすこしだけ見た大西洋は、もっと明るくて、きらきらしていた。

そう、海については、笑ってしまうような体験がいくつかあった。

アメリカがとんでもなく大きいということは、初めて西海岸に行ったときに知ったはずだった。今回は東海岸はニューヨーク、JFK空港に向かって飛んでいた。きっと、生まれて初めて大西洋を見ることができる。そう思って、ぼくは着陸のタイミングをたいそう楽しみにしていた。

まもなく着陸、のアナウンスで、窓からは美しい海岸線が見えていた。明るい空色の水面と、栄えた街。あれがそうか、ついにそうか、と心が躍った。ところが、飛行機は海へと飛び出し、ぐんぐん進み続けて、旋回する気配もない。僕の焦りをよそに、窓からは最早街は消え、青い水面ばかりが広がる。いったいどこへ行くつもりなんだろう。必死でアメリカの地図を思い浮かべる。海沿いの街を横切ってニューヨークに向かうようなルート、あるだろうか。どうもそれはなさそうだ。それじゃこれはどういうことなんだ。

不意に広大な大地が広がった。森と農地ばかりが見える。だだっ広い――。

やっとのことで僕の脳内航路シミュレートは修正される。

海じゃない。

あれは、五大湖だ。

寸の間ぽかんとし、それから無性に笑えて来た。海にしか見えない。そのくらい大きかった。上空から見ていて、対岸すら見えない。

アメリカ国土のスケールには、どうやっても僕の認識はついていけないようだった。二、三度通りがかったくらいでどうにかなるようなものではなさそうだ。僕は極東の小さな島国の、海の見えない土地で生まれ育った。故郷の風景をまるごとすっぽりはめこんで、それでもまだ余裕のある「湖」は、僕の頭は認識できない。地球ってでかいんだな、なんてことを思った。

まもなく着陸のアナウンスから、沢山の森と農地をじっくり眺めて、飛行機は少しずつ高度を下げる。街並みが変わり、だんだんと都会のそれに代わっていく。車が走っているのが見える。低い高度を反対方向に向かって飛んでいる別の飛行機は、お互いの速度のかけあいで、おもちゃみたいなスピードで視界を駆け抜けていく。街のど真ん中に突然、飛行機がたくさん停まっているのが見えた。きっと、あれが、JFK空港だ。

飛行機は大きく旋回することなく、空港を素通りして飛んでいく。その先の海上で旋回するつもりらしい。マンハッタン島らしい、ビルが乱立するエリアを抜け、河川を越えた先。

ごく単純な作りのジオラマみたいだ。冗談みたいな、絵みたいな光景。真一文字に引いた海岸線。資料集でも見なかったくらい分かりやすい砂地の地形。砂嘴があり、砂洲があり、海岸線に続く。一人で笑いながらそれを眺めていたら、ぐいと旋回が始まった。

朝の低い位置からの太陽光をまともに浴びる。とてもまぶしく、腕はすぐ日焼けしそうだった。遮るものがない海上で、太陽は朝にしては高く上っているように見えた。島も船もなく、ただ平たく広がる海面は、距離感が狂うほど一面に揺れて光を反射する。大西洋。この広い、水の平野。日本人は水平線は見たことがあっても、地平線は見たことがないんだ。昔聞いた誰かの言葉を思い出す。山が多いから、ただ地面が広がっているだけの地平線は見れない、というわけだ。だけど水平線だって、こんなにすっきりしたものを見るのは難しいと僕は思う。島もなく、船もなく、ただ地球の表面に留まっている水の広がりを見るなんて。

アメリカに入国する前、着陸すらしていないというのに、僕は随分と大冒険をした気分だった。あんなに大きな海を見る人生だとは、想定していなかったんだ。

 

まあ、そういうわけで、アヤ、僕は相変わらずそれなりに楽しくやっている。

ついに気分に合うものがなくなって、映画を探すのは諦めて、クラシックなんかを流している。気張ってロックを聞くほど元気じゃないというか、いや、クラシックが帰る場所になるとも思っていなかったんだけれど。コダーイ無伴奏チェロ組曲は良い感じた。MATT HAIMOVITZという人の演奏らしい。じきに日本が見えるはずだ。上手くすれば北海道なんかも見えるかもしれない。アメリカみたいな度肝を抜くでかさはないけれど、繊細なミニチュアみたいな地形が、とても美しいと僕は思う。

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