ななつめの井戸レポ

よしなしごとによるリハビリテーション

第一哲学だけで思想はやれない(1)

岩波書店から、

クリフォード・ピックオーバー著、板谷史/樺信介訳『ビジュアル医学全史 魔術師からロボット手術まで』(2020年1月)が出た。

全頁カラー図版で、1頁ごとに完結する短い記述の羅列はとても読みやすい。

正直、あと3~4年くらい早くこういうのが欲しかった。

平易な訳文とフラットな内容も素晴らしいし、医療・科学についての歴史的知識の入門にはぴったりだろう。

不満があるとすれば、各項目の人名や署名は原表記もしくはアルファベットでの表記を添えてほしかった。わがままだとわかってはいる。たいがい有名どころなんだから、ちょっと調べれば出てくるだろうし、分からないほうの無知が責められるべきといえばそうなのだが、カタカナ表記ではらちがあかないところがある。端的に不便。検索するときは絶対原表記がいるし。

 

かつて17世紀の思想を勉強していたころ、その時代の科学的な前提というやつがわからなくて、ずいぶんと手を焼いた。

だいたいの大陸系哲学屋は、あんまりそのあたりを気にしていない気がする。形而上学まっしぐらで、テキストを読もうとする。僕はそれがちょっと気に食わなかった。そりゃあ、研究的なボリュームゾーン形而上学かもしれない。けれど、膨大なページを割かれている、偏執的なまでに長いこの記述、今から見れば単なる時代遅れで間違いだらけのこの科学についての知見は、無視していいんだろうか。

僕は初心者だったので、躍起になって何日も何日も、そのわけの分からない、魔術的で迷信的な記述の読解に時間を割いた。見たことも聞いたこともない話で、なんでこいつがそんな話をしているのかさっぱりわからなかった。こんなに一生懸命書くってことは、実はこいつは哲学者なんかじゃなくって、科学者で、自分が得た新しい知見を発表しているのかしらん。その割に、滅茶苦茶引用ばかりしている気もする。こいつ自身の発見じゃなさそうだ。いったい、何が当時の常識で、通説で、トレンドで、新説なのか。闇雲に、歯ぎしりしながらひたすら読むしかなかった。脳の話、神経の話、血液循環についての発見、突如出てくる乳糜、常識とばかりに出される胆汁説、なんでその話が始まるのか分からないが妊婦と奇形児にかんする(今の感覚で読むと迷信的で差別的な)推論、エトセトラ。

実に無駄な努力だった。そんなことより機会原因論が出てくる回のクライマックスを先に読むべきだったと思う。ゆーてまあ、物理運動の方はビタイチ興味がなく、身体機能と心身問題についてしかやる気はなかったんだけれども。しかし、ともかく、無知は、努力のしどころを誤らせるものだ。

そこでこの『ビジュアル医学全史』の出番だ。イブン・スィーナー(アヴィセンナ)もいるし、ガレノスの四体液説(胆汁の話)もちゃんと載っている。黒胆汁の話、本当に付き合いたくない。ヴェサリウスの『ファブリカ』は、意外にも某研究対象者殿が生まれる100年弱前に出されていた。神経系のカタチは思ったよりずっと早く知られていて、そりゃあいつも自信満々に書くよなと思う。ガレノスを否定してくれてどうもありがとう。あと君のおかげであいつのアンチスコラの精神が強化された気がしなくもない。ハーヴェイの血液循環説はやっぱり結構「最近の」話題で、よくデカルトと比べるように出てくるのもしみじみ納得できる。この本では、循環器の項目でデカルトは出てこなくて、なんていうか僕らのヒーローがあんまり大事にされてないけれども、こっちがわの論文ではけっこう比較されているイメージがある(記憶違いだったら申し訳ない)。ハーヴェイが顕微鏡を持っていなかったというのはけっこう意外な話だった。1652年にリンパ系の項目があって、あいつにとってやっぱりこれは相当トレンドだったのかなと思う。栄養の吸収の話、読むの面倒だったなあ。トーマス・ウィリスによる『脳の解剖学』は1664年出版。実に忌まわしき数字である。脳の仕組みは本当にホットな話題だったんだろう。加えて、顕微鏡の項目もここで出現する。少し考えれば当たり前だが、あいつはレーウェンフックやロバート・フックと完全に同時代人だ。ダニとかノミとかを顕微鏡で見て、神の偉大さを賛美するあいつのあのテンション、正直嫌いじゃない。めちゃめちゃハイテンションでグルーヴがすごい。結合双生児(1689年)、奇形児の話(1726年)も記載があり、なるほど不自然でしかなかったあの部分も、当時からすると至極まっとうな話題だったのだなと分かる。あと、「胎内感応説という時代遅れの理論」(『ビジュアル医学全史』49頁)ってばっさり書かれていますけれども、それを補強しようとしてますね、あいつ。

そんなこんなで、学位のかかった論文のために毎日うなっていたあの頃、この本があったらどんなに楽だっただろうかと、ちょっとしょっぱい気持ちになっている。

無知はいけない。丸腰でテキストと戦おうとしてはいけない。

第一哲学だけでテキストは読めない。根拠薄弱ながら、あいかわらず僕はそう信じている。第一哲学だけで思想がやれるもんか。いや、断言は難しいけれど、とにかく僕のような奴には無理。

少なくとも、僕にはこの本みたいな補助線がぜったいに必要だった。医学の歴史そのものを研究する気はないにしても。

 

(続く(かも))

アヤへの手紙#02 大きい海の話

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アヤへ。

日付変更線を越えたらしい。

遠くに見える陸地は、ロシア領、ベーリングとか、きっとそんなあたりだ。

僕たちは途方もなくのっぺりと広がる太平洋の上空にいる。当たり前だが、後にも先にも、連綿と光がある。9月25日の昼の光と、9月26日の昼の光だ。時間的同一性とか、同時性とかが云々、という話はともかく、人間はぐるりと360度取り巻く時間の帯を、ざっくり切り分けて、9月25日とか、9月26日とかを作ったわけだ。時間的に同一でも、こっちは9月25日の出来事で、あっちでは9月26日の出来事になる。事象を名指すって、実はけっこう難解なことなのかもしれない。それとも、名指しに日付なんかを使うから、ややこしいのか。まあ、結局グリニッジ標準時間を基準にして、話は終わりになるだろう。

天気のせいか、太平洋の海面はあまり明るく見えない。往路にすこしだけ見た大西洋は、もっと明るくて、きらきらしていた。

そう、海については、笑ってしまうような体験がいくつかあった。

アメリカがとんでもなく大きいということは、初めて西海岸に行ったときに知ったはずだった。今回は東海岸はニューヨーク、JFK空港に向かって飛んでいた。きっと、生まれて初めて大西洋を見ることができる。そう思って、ぼくは着陸のタイミングをたいそう楽しみにしていた。

まもなく着陸、のアナウンスで、窓からは美しい海岸線が見えていた。明るい空色の水面と、栄えた街。あれがそうか、ついにそうか、と心が躍った。ところが、飛行機は海へと飛び出し、ぐんぐん進み続けて、旋回する気配もない。僕の焦りをよそに、窓からは最早街は消え、青い水面ばかりが広がる。いったいどこへ行くつもりなんだろう。必死でアメリカの地図を思い浮かべる。海沿いの街を横切ってニューヨークに向かうようなルート、あるだろうか。どうもそれはなさそうだ。それじゃこれはどういうことなんだ。

不意に広大な大地が広がった。森と農地ばかりが見える。だだっ広い――。

やっとのことで僕の脳内航路シミュレートは修正される。

海じゃない。

あれは、五大湖だ。

寸の間ぽかんとし、それから無性に笑えて来た。海にしか見えない。そのくらい大きかった。上空から見ていて、対岸すら見えない。

アメリカ国土のスケールには、どうやっても僕の認識はついていけないようだった。二、三度通りがかったくらいでどうにかなるようなものではなさそうだ。僕は極東の小さな島国の、海の見えない土地で生まれ育った。故郷の風景をまるごとすっぽりはめこんで、それでもまだ余裕のある「湖」は、僕の頭は認識できない。地球ってでかいんだな、なんてことを思った。

まもなく着陸のアナウンスから、沢山の森と農地をじっくり眺めて、飛行機は少しずつ高度を下げる。街並みが変わり、だんだんと都会のそれに代わっていく。車が走っているのが見える。低い高度を反対方向に向かって飛んでいる別の飛行機は、お互いの速度のかけあいで、おもちゃみたいなスピードで視界を駆け抜けていく。街のど真ん中に突然、飛行機がたくさん停まっているのが見えた。きっと、あれが、JFK空港だ。

飛行機は大きく旋回することなく、空港を素通りして飛んでいく。その先の海上で旋回するつもりらしい。マンハッタン島らしい、ビルが乱立するエリアを抜け、河川を越えた先。

ごく単純な作りのジオラマみたいだ。冗談みたいな、絵みたいな光景。真一文字に引いた海岸線。資料集でも見なかったくらい分かりやすい砂地の地形。砂嘴があり、砂洲があり、海岸線に続く。一人で笑いながらそれを眺めていたら、ぐいと旋回が始まった。

朝の低い位置からの太陽光をまともに浴びる。とてもまぶしく、腕はすぐ日焼けしそうだった。遮るものがない海上で、太陽は朝にしては高く上っているように見えた。島も船もなく、ただ平たく広がる海面は、距離感が狂うほど一面に揺れて光を反射する。大西洋。この広い、水の平野。日本人は水平線は見たことがあっても、地平線は見たことがないんだ。昔聞いた誰かの言葉を思い出す。山が多いから、ただ地面が広がっているだけの地平線は見れない、というわけだ。だけど水平線だって、こんなにすっきりしたものを見るのは難しいと僕は思う。島もなく、船もなく、ただ地球の表面に留まっている水の広がりを見るなんて。

アメリカに入国する前、着陸すらしていないというのに、僕は随分と大冒険をした気分だった。あんなに大きな海を見る人生だとは、想定していなかったんだ。

 

まあ、そういうわけで、アヤ、僕は相変わらずそれなりに楽しくやっている。

ついに気分に合うものがなくなって、映画を探すのは諦めて、クラシックなんかを流している。気張ってロックを聞くほど元気じゃないというか、いや、クラシックが帰る場所になるとも思っていなかったんだけれど。コダーイ無伴奏チェロ組曲は良い感じた。MATT HAIMOVITZという人の演奏らしい。じきに日本が見えるはずだ。上手くすれば北海道なんかも見えるかもしれない。アメリカみたいな度肝を抜くでかさはないけれど、繊細なミニチュアみたいな地形が、とても美しいと僕は思う。

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アヤへの手紙 #01 世界という大きな書物

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アヤへ。

この下書きは、飛行機のEチケットを裏紙にして書いていた。

モレスキンの手帳とか、そうでなくともせめて、あのクリスチャン・スケジュール・ブックとか、風情のある紙はいくらでもあるだろって、君は呆れるかもしれない。でも、A4紙を4つ折りにすると、ちょっとした本くらいのサイズ感で、書きやすいんだ。だからこれも、仕方ないってことにしておいてほしい。

飛行機は少し揺れている。真っ白で厚い雲の上を飛んでいる。立体的で、地上は見通せず、なめらかで美しい表面がかがやくように一面に見えている。翼より幾らか上には、高層雲なのか巻層雲なのか、また別の、紫がかった灰色の薄い雲がたなびいている。

昔読んだ『空の名前』(高橋健司、1999年、角川書店) で、雲は幾つかの層に分かれていると知ったけれど、まさかこんなにくっきりと分かれているって――というか、それぞれの在る層がけっこう離れているんだって――ことは、飛行機に乗って初めて知った。

乗り物は良い。色んなものをじかに見せてくれる。眼下には蛇行する河川が砂地の地形を築いているのが見える。はるかに小さく見えるこれも、間近になればまた違って感じられるだろう。知識と経験はやっぱり別物だ。

本は、ここではないあちこちへ、ひととびに連れて行ってくれる。乗り物では、僕たちは実に地道に(空路とはいえ!)移動する。時間をかけ、沢山のテクノロジーを使って、ものすごい量のエネルギーを消費しながら、物質的制限を伴う身体でもって、その制限に律儀に従っていく。思うに、僕たちはその律義さで、いわば、デカルトのいうところの「世界という大きな書物」(ルネ・デカルト方法序説』)を読みに行くのだ。

本を読むのにある程度の語彙や教養が要るように、世界を読むのにも知識が要る、と僕は思う。歴史、地理、地質、気象、文化、エトセトラ。知識は僕たちを豊かにし、世界を”よく読める”ようにしてくれる。勿論、斜め読みができるように、意味が解らずとも想像で補いながら文字をたどることができるように、世界だってわからないなりに懸命に見ることは可能だ。歯が立たなければ迂回して知識を蓄えてもいいし、時を経て読み返せば、まるで違う印象を抱くことだってあるだろう。

僕たちは知識と経験のあいだを行ったり来たりし、本と「大きな書物」を行き来する。きっとこの「大きな書物」はお気に入りになるし、乗り物はそれを読むのにうってつけなのだ、と僕は思っている。

今はたぶん、カナダの上を飛んでいる。円い湖がぽこぽこと口を開けていて、湿地帯のような雰囲気だ。黄土色の土地。一本だけ、いやにくっきりとしたラインを見せている河は、いったいどうやってできてどこに行くのだろう。クレープの表面に似た地面が、低層を流れる雲でかき消され、見えなくなる。この書物を、僕はまだ満足に読めない。いつかきっと、知識を蓄えて、あの土地を踏んでみたいと思った。

Blue between sunset et sunrise

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青をみた。

陽が落ちる前の大陸から、陽がのぼる頃の列島に向かって飛んだときのことだ。
往路では夜を迎える列島から、夜の中を飛んで、大陸が昼になるころにたどり着いた。
だから、夜の中がどんなに暗いかはすでに知っていた。
翼の先の心許ない光が、いまにもおぼれそうにまたたいて、雲なんかを通れば掻き消えてしまう。
その黒が、空なのか海なのかは判然としない。とにかく、暗闇の色は往路で知った。
復路、午後の日差しの中を飛び立った。
羊雲を眼下に見下ろし、湾岸の美しい弧を窓の淵で懸命に見ようと額を窓につけ、そうしてやがて眠った。
時差ぼけはそのころにはそうひどくはなかったけれど、前の晩、あまり眠れていなかったから、
意識はどこかに吸い込まれるように、シームレスに、すっと消えてしまった。
どれだけ眠ったかは定かじゃないけれど、まどろみから醒めて、
国際線の楽しみとでも言うべき映画を物色する。何かをみて、合間に顔を上げて、窓をみたときだ。
青があった。
昼の空でもない。薄暮の、少し紫がかった哀愁のある空でもない。
暁を前にした、黄色混じりのそれでもない。
深いという形容をしていいのかもわからない。空に底があるわけでもないから。
紺色や藍色にも似た、明るいような、濃いような、青だった。
どうしてそんな色ができるのか、高度なり緯度なり、理由はありそうだったけれど、
そのあたりはぼくにはとんと分からない。
ただ息を呑んで、それから、なんとか視界からその青を吸い込めやしないかとがんばった。
焼き付けるだなんて、焼いたらなにか焦げとか、付きそうだし。色が変わりそうなことは何一つしたくない。
それに眼底に色がついたところでどうということもなし。
色を、色の質感を、まるごと飲み込んで、あたまに仕舞いこみたかった。
吸えるものなら吸うけれど、あいにく、色は一応、目で見るものなので、仕方がないから一生懸命、視界から吸おうと思った。
(眼球も視神経も、吸ったり吐いたりできないのは分かってる。そういう器官じゃない。知っている。)

青は好きな色だ。ずっと。ぺったりとした平面的な青もいい。
けれども、空の上で見た青は、夢にも見れなかった理想の色だった。
ぼくは目一杯青を吸って、それからこの写真を撮ったのだった。

つぎのこと

なにから書きはじめたらいいのかわからない。
あまり重大なことを書くつもりではじめるのは、あとあと億劫になるからいけないとわかったつもりでいるのだけれど。

ただ、誰かが読むかもしれないと思いながら書くものを、なにか用意しておくだけで、日々の思考が変わってくる。だから自分自身にその場を提供するために、こうやってわざわざ場所を作っている。

なかなか最近は思考がまとまらない。
耳栓をしていても色々聞こえてしまって、何もかもに首をつっこもうとしてしまう。
御しかたが難しいなと思う。
ひとつひとつ、ひとつひとつ。
そういうふうにやるしかないのだろう。

はじめのこと

f:id:nanainai:20190327003026j:plain七という数字が好きだ。
明るい青色で、シンプルそうで複雑、茶目っ気がある。

井という字が気に入っている。
井戸の井、#にも似ているけれど、軽く曲がっているところがいい。明るい黄色の文字、平仮名の「い」のままの色だ。
おのれが井の中の蛙であると言い切れるほど、自己認識に自信はないけれど、心構えとしてとりあえず井戸にいるらしいというところから出発したら良さそうだ。
清潔な水が湧く井戸だといいけれど、空井戸にだってロマンはある。なんにせよ登れそうでいい。登ったら楽しそうだ。

そんな、心底てきとうで、ほがらかで、それなりにおもいがある、そういう名前にしたつもりだ。
七井。七井直紀。ななつめの井戸で、真っ直ぐに書けますように。
ここをはじまりにしよう。
ななつめの井戸から見える風景を描写することを目指して。